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執筆者の写真エース栗原

第12章エース栗原回想記

2009年アジアデュアスロン選手権とカーフマン

世界選手権で6位入賞を果たし、勢いに乗ってアジアデュアスロン選手権に出場するためにフィリピン/スービックベイへ遠征に出る。

首都マニラから車で4時間。途中で通るインフラ整備されていない地区では窓や扉は開けないようにと注意される。さらに振り出したスコールは瞬く間に道路を川に変えて、水しぶきをあげながらスービックベイへ向かう。

スービックはフィリピンの中でも経済特別区に指定されており、タクシーは許可を得たものだけが走行を許されたり商業施設の開発がされているため、治安が良い。


東南アジアで開催されるレースの特徴。


朝6時スタート!majide


レース終わっても8時というミラクル。笑


今回の遠征を共にする男性陣は、


〇深浦祐哉選手

デュアスロン界の皇帝。ラン・バイク共に高い力持っているのはもちろん2ndRunでのパフォーマンスは群を抜いて力あり、この頃からデュアスロンのトップを行く選手。


〇辻泰樹選手(立命館大学)

トライアスロン日本選手権ではバイク終了間際にパンクし、バイクを担いで走ったという伝説を持つ男。アメリカ世界選手権を共にした"たなじゅん"の後輩。

灼熱の昼間にランで現地の環境に馴染ませながらレースに挑む。

アジア選手権なので距離は1stRun10km-Bike40km-2ndRun5kmの国内転戦よりも距離が長い。


スタートしてからU23カテゴリー中では抜け出すことが出来たものの、皇帝深浦選手を含むエリートカテゴリーには差を付けられてしまう。このままバイクに移るのはリスキーだが、後ろを待つのはもったいない。


バイクに乗車してから、一か八か単独で先頭集団3名を追う!すると先頭集団は牽制状態でペースが上がっておらず、6kmほど奇跡的に追いつくことに成功!この集団にいるU23選手は僕のみ。


後続集団から逃げて、差を広げて、2ndRunで追いつかれなければついにアジアチャンピオンだ。牽制状態だったバイク集団を積極的に引いて、協力してもらってペースを上げていく。第2集団との差は開いていく。


そして2ndRun。ふくらはぎの痙攣が始まるのは承知の上だ。この痛みを乗り越えた先にフィニッシュがある。『大丈夫、オレはできる』何度も自分の心に言い聞かせて走っていく。


そして迎えるフィニッシュ。

いつからだろうか。トライアスロンを始めて、異国の地のレースでアジアチャンピオンになれる時なんて想像すらできなかった。でも、僕の目にはもう目の前に見えている。

深浦選手はレース前の食事か水が合わなかったのか腹痛に悩まされながらのレースでもエリートカテゴリーで優勝、辻ちゃんはU23で2位だった!!

表彰式を終え、次の朝にはマニラへ向かい。

フィリピンのトップ選手モニカ・トーレスにディナーを共にして、金メダルをお土産に帰国した。


帰国後すぐに参戦3年目となるカーフマンに出場。

このレースで四天王の内 森選手のみの出場というのもあり、初めて先頭集団でレース展開をすることすることができた。集団にはフィリピン遠征を共にした辻ちゃん、そして石川のレンジャー部隊濱選手、そして森選手。

4名のバイク走行で後ろからは学生を含む大集団が追ってくる。数的有利こそ後続集団だが、僕らは足が揃っていた。この協調体制はなかなかスゴイ。

2ndRunは相変わらず痙攣!アジアチャンピオンとして挑むレースにしてはパフォーマンスに欠いていたが、レース展開は満足のいくものだった。

とはいうものの、辻ちゃんは準優勝!

《四天王時代》に挑む一人になった。

大学4年ではあるが大学院の進学を決めていた僕は、デュアスロン界の次世代として自覚と自負を持ち、引き続き練習を重ねていく。

次回、伝説のレース2010年日本デュアスロン選手権。



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